執筆・文責:弁理士 中村幸雄

企業は、膨大な情報に囲まれています。

特許、論文、市場動向、競合企業、投資情報、規制、標準化、訴訟、OSS、採用情報。

AIの発達により、これらを集め、整理し、要約することは以前より容易になりました。しかし、情報が増えたからといって、経営判断が容易になったわけではありません。

実務では、調査報告書が完成したあとに、こんな問いが残ることがあります。

「結局、何を決めればよいのか」

「誰が、いつまでに判断するのか」

「決めないことで、どのようなコストが発生するのか」

分析結果はある。情報もある。けれど、意思決定につながらない。

この課題に向き合うための方法論が、戦略知能工学(Strategic Intelligence Engineering:SIE)です。

出発点は「何を調べるか」ではない

従来の調査は、まず情報を集めるところから始まることが多いかもしれません。

戦略知能工学では、順番が逆です。

最初に考えるのは、「何を意思決定するのか」

SIEでは、これを Decision Design と呼びます。

最初に意思決定を定義すると、必要な情報が変わります。

単に「競合を調べる」のではなく、「自社が出願すべきかを判断するために、競合の何を見るのか」を設計する。

意思決定が、調査の範囲と深さを決める。これがSIEの出発点です。

情報源も、意思決定から逆算する

次に行うのが、情報源の設計です。SIEではこれを Source Map と呼びます。

公開情報で確認できるものは何か。社内資料で確認すべきものは何か。有料データベースが必要なものは何か。そして、人間に確認しなければ決まらないものは何か。

この区分をせずに調査を始めると、情報は増えても、判断に必要な証拠が欠けることがあります。

特許情報だけを見ても、企業の本気度は分かりません。決算資料、採用情報、標準化活動、提携、訴訟の動きなどを組み合わせて、はじめて見えてくるものがあります。

だからSIEでは、多様な情報を「意思決定に必要な形で」組み合わせます。

戦略知能工学の10ステップ

Decision DesignとSource Mapは、SIEの最初の2つのステップにあたります。

全体は、次の10のステップで構成されます。

ステップ 内容
1. Decision Design 経営上の意思決定を定義する
2. Source Map 意思決定に必要な情報源を設計・分類する
3. Evidence Acquisition 一次情報を優先して証拠を収集する
4. Corpus Engineering 収集した情報を分析可能な形に整える
5. Knowledge Structuring 企業・技術・権利・関係を構造化する
6. Landscape Analysis 技術・市場・競合・知財・規制を俯瞰する
7. Strategic Option Design 複数の戦略案を設計する
8. Decision Memo 経営者が判断できる形にまとめる
9. Action Plan 誰が・いつまでに・何をするかに落とし込む
10. Monitoring Loop 環境変化を継続監視し、判断を見直す

特徴は、前半に「設計」を置いている点です。何を決めるのかが定義されて、はじめて、集めるべき情報と分析の深さが決まります。

そして後半は、分析で終わらせず、判断・実行・監視まで進めます。

各ステップの詳しい進め方は、今後のコラムで順に扱っていきます。

報告書を、意思決定文書に変える

戦略知能工学は、調査報告書を否定するものではありません。既存の報告書の多くは、高い品質を持っています。

欠けているのは、その先です。

従来の報告書は、しばしば「現状はこうです」で終わります。しかし経営に必要なのは、誰が、いつまでに、何を決めるのか。選択肢は何か。判断を保留した場合、何が起きるのか。

SIEは、報告書を置き換えるものではありません。

報告書を、意思決定文書へ変換する層です。

調査結果を「分かりました」で終わらせず、「では、何を選ぶのか」まで進める。ここに、SIEの役割があります。

「決めないこと」にもコストがある

実務では、「まだ決めなくてよい」という判断が選ばれることがあります。もちろん、急がない方がよい場面もあります。

しかし、常にそうとは限りません。

出願を先送りしている間に、他社の出願が進む。

ブランド名の決定を遅らせている間に、使用実績や広告投資が積み上がる。

共同研究の条件を曖昧にしたまま進め、成果の帰属が不明確になる。

「まだ決めない」という判断にも、目に見えないコストが累積している場合があります。

SIEでは、この保留コストも意思決定の一部として扱います。

AIは実行者、人間は設計者

生成AIは、調査、要約、比較、分類を短時間でこなします。この作業は、今後さらに速くなります。

だからこそ、人間の役割は明確になります。何を決めるのか、何を証拠とするのか、誰がいつまでに判断するのか──問いを設計することです。

AIは強力な実行者です。しかし、意思決定の設計者は人間です。

戦略知能工学が目指すもの

戦略知能工学は、新しい分析ツールでも、AIを使った情報収集術でもありません。

目的は一つ。経営者や事業責任者が、より良い意思決定を行えるようにすることです。

情報が増える時代に必要なのは、情報をさらに増やすことではありません。

情報を、判断に変えること。

調査を、戦略に変えること。

戦略を、実行に変えること。

戦略知能工学は、そのための実務的な方法論として、これからも磨き続けていきます。

執筆・文責

弁理士 中村幸雄

特許・商標を中心に、著作権、意匠、営業秘密など、事業上の知財論点を整理する弁理士。 「知財の余白」では、権利の種類がまだ分からない段階から、知財・ブランド・事業リスクの入口を整理するための情報を発信しています。