はじめに:AI半導体に加わった「価格」という新機軸
AI半導体の競争に、新たに「価格」という軸が加わっています。
2026年4月、Tenstorrentが発表したAIサーバー「Galaxy Blackhole」は、32基のチップを搭載しながら11万ドルからという価格設定です。一般的なEthernetでシステムを拡張できるうえ、ソフトウェアも公開されています。
公表された性能は特定の条件下での測定結果であり、常にNVIDIA製品を上回るわけではありません。しかし、注目すべきはAI半導体が安くなったことだけではありません。
「価格競争が始まったとき、企業は『知財』によって何を守るべきなのか?」
この問いに対し、NVIDIAとTenstorrentは全く異なる戦略をとっています。
NVIDIAの戦略:売っているのは「GPU」だけではない
競合がNVIDIAより安い半導体を出しても、顧客がすぐに乗り換えるわけではありません。なぜなら、顧客は半導体の演算性能(GPU単体)だけを買っているわけではないからです。
圧倒的な「統合基盤」:GPUの上に、開発環境「CUDA」、ライブラリー、AIモデル、システム、運用支援までを組み合わせた巨大な計算基盤を構築しています。
巨大なエコシステム:2026会計年度の年次報告書によれば、CUDAなどの利用開発者は世界で750万人以上。2025年9月の発表では、CUDA向けアプリケーションは約6,000に上ります。
高い乗り換えコスト:すでに蓄積されたプログラム、技術者の知識、最適化された運用環境を捨てて他社製品に乗り換えるには、膨大な費用と時間がかかります。
NVIDIAは特許だけで競合を排除しているのではありません。ハードとソフトを一体化させることで、「GPU単体の価格では比較しにくい市場(顧客がNVIDIAを選び続ける構造)」を作って守っているのです。
Tenstorrentの戦略:「変更できる自由」を価値にする
Tenstorrentは、NVIDIAと同じ規模の統合基盤で戦うのではなく、「技術の主導権を顧客側に残す」という対照的な道を選びました。
徹底したオープン化:低水準ソフトウェア基盤「TT-Metalium」をオープンソース化。ハードに近い部分(通信機構や行列演算器など)まで、公式リポジトリでソースコード等を公開しています。
特定の企業に依存しない:安さだけでなく、「中身を確認できる」「自社向けに変更できる」という技術的な選択肢を顧客に提供しています。
ライセンスによる自由:RISC-V CPU「Ascalon」では、顧客が同社のCPU IPを自社向けに変更し、独自製品を作れる「Innovation License」を提供しています。
知財戦略の要:「オープンソース=知財の放棄」ではない
Tenstorrentはソフトウェアを公開していますが、知財を手放しているわけではありません。同社の特許表示ページには「Software Products」に関する米国特許2件をはじめ、根幹技術(チップ内通信やRISC-V関連など)の特許が多数掲載されています。
同社の戦略は、以下のように設計されています。
公開する:利用者を増やすため、ソフトウェアや開発環境はオープンにする。
守る:製品の競争力を支える技術は特許でしっかり守る。
利益を得る:顧客による改変や独自設計には、ライセンスという形で応える。
公開か独占か、という二者択一ではありません。「どこを開き、どこを守り、どこで利益を得るか」という境界線の設計こそが重要なのです。
境界線は「契約」によって実装される
公開範囲を決めるだけでは知財戦略は完成しません。実際には、以下のような点を契約やライセンス条件で整理する必要があります。
- 顧客はどこまで改変できるか?
- 改良した技術の権利は誰が持つか?
- 特許の実施許諾はどこまで含まれるか?
- 再配布や第三者提供を認めるか?
- 保守、性能保証、権利侵害への対応は誰が負うか?
特許を持っていても、使いやすいライセンスがなければ技術は広がりません。「公開・特許・営業秘密・契約」の4つは、一体として設計する必要があります。
結論:価格だけで比較されない理由をつくる
NVIDIAは「統合された計算基盤」を、Tenstorrentは「透明性と変更の自由」を価値としています。アプローチは異なりますが、「自社の半導体を価格だけで選ばれる部品にしない」という狙いは共通しています。
知財の役割とは、まさに「価格だけでは比較されない競争軸をつくること」にあります。
これは、大企業だけの問題ではない
自社技術を公開して利用者を増やすか、特許で独占するか。どこまでを営業秘密とし、どこをライセンスで開放するか。
この線引きは、むしろ人員や資金が限られたスタートアップや小規模な開発チームほど、早い段階で考えるべき問題です。
すべてを特許にする必要はなく、オープンソース化が知財の放棄を意味するわけでもありません。事業の中で、これらをどう組み合わせるかが問われているのです。